種と旅と vol.2

lalala farm / ズッキーニ

オーガニックがどうだ、自然栽培がどうだ、と白黒をつけてしまいがちですが本質的な問題はそこにはきっとありません。 肥料を撒く事が悪で、無肥料が善とされる。そしてF1品種が悪で、自家採取が善とされる。そこに論点を当て白黒付けようとするより、もっと「自然」という言葉の本質に向き合うべきです。

「みんな、自然に自然にと言っていかに手を加えないかを考えているけど、そもそも畑とは自然の営みではない」よっちゃんのその言葉に僕はハッとさせられました。 草が生い茂っている場所に人の手で草を刈り、本来ならそこにいないはずの野菜を人の作為で植えている。まずその根源に気づかなければならないのです。雑草のように、作為とは程遠く生きる存在こそ自然を表しているのです。

F1品種にしろ、自家採取にしろ種に罪はありません。
「種はあくまで設計図だ。」とよっちゃんは何度も口にしました。「いくら良い設計図を書いたとしても、組み立てる材料が手元になければ何も始まらない。」と。
ここでいう材料とは環境のことです。環境を整えてあげなければ見知らぬ土地に放たれた種はあまりに無防備な状態で過ごすことになります。要するに、いくら良い種を植えたとしても自然だと言って人の手を何も加えずにいれば、種は”設計図”としてのみの役割しか果たせないのです。

lalala farm / トマト

日本でトマトを植えているにもかかわらず、雨を嫌うトマトに、自然だからといって雨除けをしないことは決して本来の自然ではありません。トマトにはトマトにあった環境があり、それぞれの野菜にはそれぞれの野菜にあった環境があります。それを”自然”という言葉で一色単にし、人の手を加えないのは放置に他ならないのかもしれません。 一度、作為を加えた以上、いかに自然な環境に手を加えて整えていくか。人の作為で土に植えたからには、人の作為で責任を持って環境を整えてあげなければならないのです。 それは人の命と同様で、作為を持って命を産みだしたからには責任をもって命を育まなければなりません。
それこそが、種に敬意を払うことであり、種と向き合うことなのです。

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Written & Photographed by Katsushin Morimoto / Writer

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